Nawab Wajid Ali Shah (1822~1887)はAwadhアワド(今のラクナウ)の太守で、芸術の絶大な庇護者でした。
Nawab Wajid Ali Shahはイギリスの侵攻に対して抵抗し、最後にイギリスに落とされたAwadh国の王でした。
芸術的な才能を発揮する反面、治世には全く無頓着で、駄目な王の典型と言い伝えられています。
私的には足利義政とダブるキャラですが、彼のキャラはより濃くスケールも大きいです。
Nawab Wajid Ali Shahの治世は日本史に照らし合わせると、黒船来航の6年前から始まり安政の大獄の1年前にはAwadh藩王国は英領に併合されました。
その後インドでイギリスへの大反乱が勃発すると、妃のBegum Hazrat Mahalが息子Birjis Qadrを擁立して反乱に加勢しましたが1年足らずで捕らえられてしまいました。
これが有名なセポイの反乱です。
政治のセンスは皆無だったようですが、芸術のセンスはかなりのもので、自らカタックダンスも踊る程だったということです。
彼はかなり恰幅のいい体型ながら女装趣味だったらしく、肖像画からもその不思議ぶりは容易に推察されます。
ここでも私的にはマツコ・デラックスとかぶっています。
後宮に入り浸る彼の失政・悪政によって王国の腐敗は最高潮に達していたと言われています。
Nawab Wajid Ali Shahには数々の逸話が残っていますが、イギリスに攻められいよいよ落城という時に王の寝室まで将兵が攻め込むと、Nawab Wajid Ali Shahが一人ポツンとベットに座っていたということです。
そこでイギリスの将校が「家臣は皆逃げたというのに、あなたは何故逃げなかったのですか?」と訊くと、「ベッドを降りる時に履く、わしのサンダルを持ってくる家臣が来ない。」と答えたそうです。
噂に聞く駄目っぷりとのギャップを感じ、逆に彼のただならぬ胆力を感じ取った将校の報告を受けたインド総督府は、Nawab Wajid Ali Shahを目の届かないところに置くのは危険と判断しました。
インド総督府は彼を首都カルカッタへ強制送還し、荘園をあたえて年金生活を送らせ終生監視下に置いたということです。
Nawab Wajid Ali Shahは1887年カルカッタで没しました。
生前イギリス人に、王国を去って幽閉同然の生活を送っているがどのような気待ちか?、と訊かれると彼はフロアに白い布をひかせ、音楽家に伴奏させその上でカタックダンスを踊ったそうです。
そしてひとしきり踊った後で下に敷いていた白い布を持ちあげさせると、そこには彼のダンスステップでクリシュナが描かれていたそうです。
このフットワークで神の肖像を描くダンスアイテムは、今でも様々なダンスで、多くのダンサーがレパートリーにしています。
私もバラタナティアムのマリカ・サラバイやカタックのサスワティー・センが、ダンスステップで象の頭のガネーシュを描くのをコンサートで観ました。
因みにガネーシュは日本に渡って聖天、歓喜天と呼ばれ、どういうわけか秘仏とし祀られているのがほとんです。
インドでのよく見かける最も庶民的な肖像とは正反対の存在です。
王でありながらこれほでの芸術的素養を持った珍しい君主だったということです。
このハチャメチャで強烈なパトロンを慕って、ダンサーや音楽家・芸術家が大挙してカルカッタへ移住したそうです。
そしてコルカタと呼び名が変わった今でも、コルカタは音楽・芸術の都としてその伝統は引き継がれています。
Nawab Wajid Ali Shahの宮廷で活躍した音楽家の中に、Sarod奏者のUstad Namatulla Khanがいます。
Ustad Namatulla KhanはSarodに現在と同じ金属のフィンガーボードを最初に取り入れた音楽家という説があります。
Ustad Namatulla KhanはNawab Wajid Ali Shahの宮廷で11年過ごした後に、ネパールの宮廷で30年間仕えたということです。
Ustad Namatulla Khanの息子たちは、Ustad Namatulla Khanが最初にVilambit Gat(Masit Khani Gat)をサロードで弾いたと言い伝えています。
Ustad Namatulla Khanには2人の息子がおり、2人とも演奏家として高い評価を受けています。
長男の名前はUstad Karamatulla Khanと言い、ネパールで育ち各地を移動した後最後はアラハバードに落ち着きました。
そして次男Ustad Asadulah Khanは別名をUstad Kaukab Khanと言い、兄共々成功を納めました。
Ustad Kaukab Khanはネパールで生まれ、高度な教育を受けて育ったということです。
Ustad Kaukab Khanはタゴールの一家の一人にカルカッタへ招かれ、彼はそこで大きな名声を得ることになりました。
Ustad Karamatulla KhanとUstad Asadulah Khanは、Motilal Nehru(Jawaharlal Nehruの父)に連れられて、ウエンブリーの国際エキシビションで演奏するためパリとイギリスを訪れました。
一行がパリに着いた時にUstad Kaukab KhanのSarodは壊れてしまいました。
彼はその時現地パリでプレゼントされたバンジョーを改造、指板からフレットを外して金属のフィンガーボードを貼り、それをSarodのように見事に弾いて好評を博したそうです。
そしてその改造バンジョーをインドに帰ってからも演奏したそうで、むしろSarodよりもバンジョーの演奏で有名になったと言っても過言ではないそうです。
文献などには彼がレコードを残しているとあるので、聴くことが出来ればいろいろな疑問が解明されるのですが、今まで探してみたところでは出会えていません。
今回紹介するUstad Kaukab Khanのコンポジションには、Vilambit Gatも多く収録されているので、先のUstad Namatulla Khanが最初にVilambit Gatを弾いたSarod奏者いう説の裏付けにもなると思われます。
20世紀にはUstad Allauddin KhanもVilambit Gatを好んで演奏し、今でもVilambit Gatは広く親しまれています。
多くのSarod奏者がそうであるように彼らもアフガニスタン地方出身ということですが、彼らの先祖の家系や流派についての記録は残っていません。
本来ならば Ustad Namatulla Khan が仕えた Wajid Ali Shah
の Awadh流派やLucknow流派、又は Nepal流派を名乗るはずですがそれは謎です。
また今までリサーチしてきた中で彼らの直系の子孫の音楽家は現在見当たりません。