5.イギリスによる植民地支配
香辛料などの貿易からあらたにインド支配をねらっていたのは、先ずポルトガルに始まりオランダ、そしてイギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国です。自国の衰退によってポルトガル、オランダが次第に力を失っていき、最終的にイギリスとフランスがバングラや南インドを舞台に戦争を起こし、勝利したイギリスが19世紀半ばまでに全インドを支配下に置く植民地支配が始まります。イギリスはそれぞれ小国を治めていた王(マハラジャ)を懐柔し、統治のために利用しました。
1857年にイギリス軍インド兵の暴動から各地で反乱が起こり、反乱軍はムガール王を擁立しデリーを占拠しますが2年後に鎮圧されます。最後のムガール王となったバハードゥル・シャー2世はイギリスによって流刑に処せられ、一時ムガール帝国とまで呼ばれた王国は滅亡しました。
1877年イギリスのビクトリア女王はインド皇帝兼任を宣言しインド帝国が成立し、 1885年にはミャンマーまでも併合されました。イギリスによる植民地支配のため、 インド帝国の表舞台から姿を消したインド音楽は、 イギリスの統治に協力した各地のマハラジャの宮廷で生き残ることになりました。
ヴィシュヌ・ディガンバル・パルスカール(1872~1931)はキルタン歌手を父に生まれます。 少年時代に事故で視力に障害を受けてしまった彼は、ミラージのマハラジャに仕えるハヤールの 歌手バール・クリシュナ・ブヮーのもとで厳しい徒弟制度の中、伝統を学んでいきます。 その後グゥワリオールでグゥワリオール・ガラの伝統も学び、 インド各地を巡った後1901年にラホールに音楽学校を設立します。
それまでマハラジャの宮廷が演奏の場であり、仕える音楽家の家系によってのみ伝えられた「ガラナ」の伝統は、この音楽学校の設立によって音楽家の家系に生まれなくても伝統音楽を学ぶことが出来るようになりました。
ヴィシュヌ・ナラヤーン・バトカンデー(1860~1936)は それぞれ音楽家の家系によって伝承されてきた伝統的なラーガによる楽曲を集め、 一同に編纂し楽典の制作を試みたヒンドスターニ音楽の楽理学者です。 また彼は様々な音階からできあがっているそれぞれのラーガを音階の形を基に分類を試みました。 そして当時多くの音楽家が活躍し特に音楽が盛んだった街の一つグゥワリオールでマハラジャの意向を受け、 1918年に音楽大学を設立。その後1926年には音楽・舞踊の中心地でもあったラクナウにも 音楽大学を設立しました。
また彼は各地方に伝わるスタイル(ガラナ)を伝承する音楽家を集め、 最初に音楽会議(各地の伝統流派の音楽家が一同に集まるコンサート形式)を行いました。
1930年代には南インドに音楽大学が設置されるなど、カルナータカ音楽にも その伝統の門戸が開かれていきます。 20世紀初頭に起こったこうした動きは閉鎖された環境で脈々と受け継がれてきた インドの古典音楽にとっては大変革になりました。